ご由緒と神社

高石神社について

About Takaishi Shrine

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About

天照皇大神を祀っています

高石神社は、川崎市麻生区高石1丁目に位置する神社で、主祭神として天照皇大神を祀っています。江戸時代には「伊勢宮」と称され、周囲は「お伊勢の森」と呼ばれていました。創建は1654年(承応3年)で、地頭であった加賀美金右衛門正吉が建立したと伝えられています。大正11年(1922年)には、近隣の熊野社、御嶽社、春日社、富士浅間社、八幡社を合祀し、現在の高石神社となりました。
神社は標高117メートルの高台にあり、晴れた日には東京方面や房総の山々を望むことができます。年間を通して例祭が行われ、神輿渡御や流鏑馬、獅子舞などの伝統的な行事が催され、多くの参拝者で賑わいます。

History

神社縁起

天照皇大神を主神として祀る。
外に熊野三社大権現、春日社、八幡社を合祀し、更に稲荷、第六天の二小祠を社殿の左右に相殿として祀る。往古は高石村本村といわれていた。
天照皇大神を祀るところで、往古は「伊勢堂」と称し境内一帯は大片の老松に覆われて「お伊勢の森」と呼ばれ今日なお他の氏民に親しまれ地域の神社信仰の中心になっている。
社殿の創立は永禄年間(1558〜70年)、天正10年(1582年)高石村権禰宜広島義次の奉納によるものと伝えられ、三代藩主徳川頼宣公の奉納で、一ご神体の伝承は承応3年2月21日付田賀美佐谷大岡門町正吉、之を細野社と云う。

天正年間美作国新閉門町正吉時の地頭として 父加賀美金才兵衛正光は牛神山根氏国の 長子として天正10年(1582年)勅願天里山の磐座に比して敬仰の念篤く本社を改築し「本村」(現在2丁目)に居を構えしが同16年16歳の時、東照宮に召し出され同19年正三の時高石村大段七石八斗余の石高を知行すべき朱印を賜り、「猪ノ本村」に居住せしも同年同国新閉門町庄司に移り住んだと実記にある。
高石村には「本村」といわれしも、高石本村(現2丁目)熊野三社大権現を祀る熊野社と春する神社があり、元和7年(1621年)奉再造熊野大権現成就と記された棟札が現存し、熊野社の創建は寛(つばめ)ならず。

大正11年午村内に分散鎮座する神を合祀するに当たり熊野社の奥殿内 神殿は解体することなく村人によって運ばれ現在も奥殿内ご神体として神体が安置されている。
神殿の建築様式は延宝工に上れば延宝式の宮造りとのことである。
大正11年年紀に当たり本殿祭が行われ、拝殿・幣殿・神饌所・奥殿を造営しそれまで東照宮として東宮殿の姿を止める。
昭和50年余奥殿の老朽により、昭和50年奥殿を建営し昭和5年社務所を新築し昭和59年社殿と境内の全面的な改装整備を行い、社名を高石神社とし今日の庄殿な社殿を見るに至る。

Horseback archery

高石神社 流鏑馬

字本村という地に熊野社があり、武田の浪人加賀美金右エ門尉正吉が召し出されて地頭となったころから流鏑馬は始められたもので、最初は騎射であったが後徒歩神社となったと伝わっている。
高石の所有地は明治以前は町内一円で、毎年その中の若者が春の村祭に「宿」とし前日と当日を組合が催しその安全を祈願し、当日は馬場の最下一分をかけて流鏑馬奉納祭を行いその一切りをつとめている。

大正十一年に熊野社を高石神社に合祀して流鏑馬も神社例年行事となった。1月はじめに行う新年祭に続いて流鏑馬神事が行われる。流鏑馬の浦は馬・矢・的(戸守引弓独楽走)で、どの的のあたる米で三斗作る。
的は裸坊主の的の台上に三個の米俵これに串柿を青竹に飾り付けた。鈴森岡の方に庭に飾り、雅楽奉触する時があるが、現在でも縦三駒を款枠社殿から見て南西面に設置しこの儀礼が省かれる。
高石の馬場口に南北に向って一矢を放ち、さらに駒岡口に北に向かって一本放つ。この二本目は前方に向かって行う。次に根木を食すか今斗。続いて一般人がつる二鍛う。矢の流鏑馬で土ヘはその年の五穀豊穣に災。

流鏑馬は高石二同神前において始動する。
流鏑馬神事に関し当番者が役者を聞いてお手を分ける。
直会のおたまはふびんひん年等・若頭・栗の三包を知らせる。流鏑馬の当番に入ると、現在の西よりと同じ宿が町会によって決められている。この地方から東新宿下に移ることによって村社会というものが一新された。
昭和五十五年奥殿を造営し昭和五十五年社務所を新築昭和五十九年社殿と境内の全面的な改造改築を行い、社名を高石神社として今日の荘厳な社殿を見るに至る。

※高石神社が建立されたのは、承応(江戸時代)三年二十八日加賀美金右エ門と記す(承應元年 1652年 340余年)

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